風の吹くままに 2008年正月より日記の開始
共育学舎代表 三枝孝之の独り言コーナー。
頻度と何時まで続くかは「風の吹くまま」ですのでご了承下さい。
日記 〜Iターン百姓のひとり言〜 2008.1〜3月の日記

Homeに戻る

       
2008年4月〜6月
6.29 山間地の現実
6.21 平凡なキャンプ
6.13 覚悟
6.11 平和学
6.09 休業
6.04 玄米が美味しい
6.02 生きている

5.30 我がままでいい。
5.29 自然破壊
5.24 若者との共同企画
5.19 冷たい雨
5.18 浅知恵
5.15 若者
5.14 人心の乱れ
5.09 何をしても同じ
5.07 田植え

4.30 愚かな証拠
4.29 各々人生
4.20 応不動
4.16 アメリカから来客
4.13 誕生日
4.10 百姓の意地と醍醐味
4.09 自分で答えを出す
4.07 情けない現実
4.05 確かのもの
4.02 戯言 2

6.29山間地の現実
連日これが人間の仕業かと思われる事件が報道されている。役人から企業家から個人まで。年齢、性別、国籍、職業、地域を問わず。日本人の人間として理性は破壊されてしまったのかとさえ思えてしまう。学歴.,職歴、肩書きに関係なく良心が麻痺してしまったのだろうか。
 区の親睦会に参加した。参加者は30名、内男性は8人。ざっと見回して自分より年下の人は2名だけ。後は80歳前後の先輩ばかり。区全体で65歳以上が90%を超えている。周りの地域も同じようなものである。これが山間地の現実である。
地域に住んでいるおじいちゃんお婆ちゃんには子供も孫もひ孫もいる。都市部で自立している。たまには帰って顔も見せてくれる。自身には年金もある。老人福祉はそれなりに充実している。昔に比べれば便利になり生活も楽になっている。後は痴呆症を患わずに旅立てたら何も言う事は無いという。山が荒れている、農地が放棄されているという現実には正面から向き合うことはしない。向き合えば辛くなる。静かな山村ではあるけれど、人間の生命を支える基盤である山林や農地は確実に
崩壊している。山は瀕死の重傷である。悲鳴を上げている。農地も同じようなものである。それでも熊野の自然が美しいと言う。癒しの地だと言う。人が何を思うのかは自由である。立場により見方も考え方も違う。今の世の中を「生きる」、「生かす」ということを中心に考えた時、優先順位が間違っているように思えてならない。人心の乱れと生態系の乱れは別のものではない。今自分に出来ること。自分の心を修め、農に励むこと。山間地で生きる現実である。今年の稲作りには多くの若者が関わっている。何とか収穫の喜びを共有したいものである。
  

6.21平凡なキャンプ
今のところ稲は順調に成育している。除草もタイミングよくしているので綺麗な状態である。動物の被害も無いが、袋に入れるまでは何が起きるか解らない。豊作を信じて日々の務めを果すのみである。
 そろそろ夏休みのキャンプの企画を纏める時期に来ている。こんなご時世だからこそのんびりしたキャンプにしたいと思っている。経験上大人が管理をしなければ、子供同士の世界が出来、子供同士で問題の解決をする。大人が管理をすればするほど、子供同士の世界でも陰湿な力関係が出来てしまう。信頼関係が無いままの管理社会が進めば進むほど軋みが出てくる。日本全体が変な管理社会になっている。ポストに相応しい人格なり能力があればさほど問題は無いが、人格も能力も備わっていないものが、権力を持ち管理しようとするからおかしなことになる。変な特権意識だけが一人歩きをしてしまう。中央官僚の不祥事や企業の不正行為などいい見本である。子供は社会の鏡でもある。社会の宝でもある。子供達に例え一時でも楽しい経験の場を提供したいと考えている。予定では8月1日から10日間になりそうである。19日から1週間のは、ある大学生のグループが既に準備を進めている。この夏休みも日本全国で色々なキャンプが企画実行される。自分の企画するキャンプは何処かのキャンプ場でするのではなく、自分が普段生活している場での共同生活である。野菜は畑で、お米は田んぼで栽培されたものであることを、経験を通し学ぶことが出来たら良いと思っている。今年の夏はどんな若者と子供達との出会いがあるだろうか。ことさらのことをするつもりは無い。子供達と平凡な時間の流れを共有できたら良いなと思っている。


6.13 覚悟
地域には自然もあり、素晴らしい施設もある。なのに地域に定住する若者は少ない。自然は荒れ、施設は老朽化していく。このままの流れでは、荒れはてた自然の中に廃墟となった人工物が残るだろう。ある大学の研究によれば、和歌山県の人口は50年後には半減するだろうと言う調査結果が出ている。今自分の住んでいる地域では5年後には半減、10年後には住んでいる人が珍しい存在になるだろう。水は山から海に流れる。荒廃は田舎から都市部に進むだろう。人心の乱れは都市部から田舎にと伝染している。この問題に関しては地域差は無い。日本全国同じような問題を抱えている。情報化の進んだ影の部分として負債を払い続けなければならない。何時被害者になるかもしれないと覚悟しておく必要がある。


6.11 平和学
2ヶ月間滞在していたアメリカの青年が帰国した。大学院に進み「PeaceStudy」の「紛争解決」の勉強をするそうだ。彼が色々な日本人と会い何を学んだだろうか。自分も彼から学ぶことは多かった。人間の本質は同じ。たまたま言語や生活習慣が違うだけのことである。人間同士の付き合いは、お互いの日常生活の心のありかたで決まる。より確かな理解をするためには言葉も必要な要素でもある。国籍や人種で何かを決め付けることは意味が無い事でもある。又何時か何処かで会う機会もあるだろう。
余談だが彼がアメリカから持参した、素晴らしいマウンティングバイクをプレゼントで置いていった。サンキュー。
 地域には今までの箱物行政で建てた立派な施設が沢山ある。問題は、あるものをどう生かして地域再生に役立てるかである。最近そのことで行政と話し合いを続けている。自分なりの提案もしてきた。若者主体の学びの場 として活用したらいいと考えている。大人が作った枠に、若者をはめ込むためではなく、若者が自らの意志で学ぶ事のできる環境を作りたいと思っている。幸いなことに核になる優秀な若者が何人かはいる。国内だけでなくアメリカやイギリスの青年とも繋がりがある。将来は色々な国の若者が学びに来る場になったら良いと思う。人間として付合いが出来れば「紛争」も解決の道が開けてくるだろう。アメリカの青年ともそんな話しをした。世界中の若者が、座学だけでなく、一緒に畑で汗を流し、寝食を共にしながら学んだらお互いの理解も深まるだろう。何時か平和な社会が実現することを願って汗を流そう。


6.09 休業
「誰でもいいから、、、、」「 何でもいいから、、、、」 この言葉の背景にあるものをしっかり受け止めて、反省をし改める努力をしていかなければ、同じような事件、事故は連鎖反応を起こし続くだろう。益々エスカレートすることにもなるだろう。
「そんなことをしては恥ずかしい」 「そんなことをしては申し訳ない」日本人としての当たり前の事が何処かへ忘れ去られ,
失われてしまっているように感じる。他人や世間を批判したところで仕方が無い。自分の責任において自らを律するようにするだけのことである。身近な問題でもやりきれない思いになることもある。自分の行為も、他人に同じような思いをさせてしまっていることもあるだろう。自分の胸に手を当ててみれば下をうつむくしかない。
 最近近所の温泉の年間会員になったので、風呂上りに大鏡の前で自分の顔を見るようになった。この顔が60年間生きてきた自分の顔なのかと思うと複雑な気持ちになる。覆面をしサングラスを掛けたいような気分になる。
 今日は雨ではなかったが休業した。疲れが溜まるといいことは無い。舵取りを間違えないようにコンデションを整えることが大事だと思っている。ストレスを溜めたら「どうでもいい」と言う気持ちなる。そんなことにならないように。


6.04 玄米が美味しい
県のある事業に若者との共同企画で応募したところ、一次審査を通過したので二次審査会に参加するよう案内が来た。二次審査会は結果はともかくとして、若者に任せることにする。思えばここ数年何回か応募し、採用もされたこともあった。そのことがどう県の政策に反映されたのかは解らない。県レベルでは手の届く範囲だが、国でも最近は県を通さないで、直接する補助事業も増えているように聞いている。国の事業は金額も多いが、提出書類も煩雑である。自分など募集要項を見ただけで最後まで読む気にはならない。専門の事務員がいない市民団体には無理なように思う。結局現場で汗を流す多くの人たちの手の届かないところにある。何とか企画会社とか何とかコンサルティングとかが美味しいところを吸い取っていく。先日も知人が来て嘆いていたが、現場で苦労して企画したものが、最終的には途中参加の東京の企画会社が予算の4割をもっていく結果になってしまったそうだ。現場で汗を流す人たちはボランティアでということのようだ。阿吽の呼吸とやらで吸血鬼みたいな人たちが吸い取っていく。机上の事務仕事で、お金だけを得ることに長けた人たちが大勢いる。寄ってたかって税金を食いつぶしている。天下り役人などがそのさいたる者だろう。汚職以上の犯罪行為だと思うのは私一人だけだろうか。今多くの国民が爪を削がれたネコのように、抵抗も出来ずに飼いならされて生きている。無策という汚職に振り回されている。農家も自営とは名ばかりでお上の言いなりにしか生きてはいけない。自分の農地でありながら米を作れ、作るなと命令され従っている。これでは小作となんら変わらない。
 今日も雨の中を田んぼの草取りをした。収穫できるかは解らない。今,草を取らなければ雑草の影響で収量が減ることは確かなことである。人間の営みは妙なものである。自分が馬鹿だなと思うと妙に心が落ち着く。毎日食べている玄米が美味しい。この程度の百姓である。


6.02 生きている
もう梅雨に入ったようだ。例年に比べ1週間は早い。午前中は曇り空だったので菜の花の脱穀を終わらせた。約50kg収穫できた。自給用とパン屋の営業用には充分な量である。
 今年は小麦の収穫がない分、田んぼの草取りに時間を割ける。草取りはタイミング。今年は代掻きの時から気をつけているので、今のところ雑草は少ない。気温が低いことも影響しているのかもしれない。これから稲も成長するが、雑草の成長も勢いを増してくる。草取りをしながら何時も思うことだが、除草剤を使う人の気持ちもよく理解できる。田んぼの草取りは重労働である。農薬、化学肥料、除草剤を使いながらの農業でなければ、高齢者には酷である。しかし農薬、化学肥料、除草剤の使い方を間違えると、結果として大きなツケを払う時が来るだろう。若く有機農業を実践できる後継者を育てる必要があるが、現実問題として地域にはそういう人材が殆ど育っていない。行政も道路や土木工事には熱心だが、人材を育てることには予算を掛けようとはしていない。地産地消の掛け声はあるが、肝心の生産者を育ててはいない。このままでは住む人がいなくなる地域に、立派な道路や、大掛かりな土木工事をする前にやらなければならないことがあるだろうと何時も思う。
 食料も高騰している。一層のことお金では食料を買えない時代が、早く来た方が良いのかと思うこともある。市場原理という名の元での、貨幣経済のバカバカしさにうんざりしている。マネーゲームに巻き込まれて生きている自分の無力さが、可笑しくもあり、哀しくもある。土の上で土に塗れて、食べ物を生産していることが支えでもある。田んぼに裸足で入り、草取りをしながら、足に伝わる土の変化が支えでもある。確かに昨年よりも今年の方が土の感触が柔らかくなっている。自分の土作りはこれで良いのだと、自己満足をしている。目先の利益を追わず、将来の繁栄を願わず、今、此処で出来ることをしていく。そんなことで自分を慰めている小さな自分が生きている。


5.30  我がままでいい
 5月の終わりなのに冷たい雨が降っている。天気予報では明日も雨。寒い中でも稲はそれなりに生育している。今年は例年に比べて深水で管理している。獣害対策も電気柵とネットを併用して張ってある。今のところ被害は無いが、問題はこれからである。この調子だと稲刈りが遅くなる可能性がある。後およそ100日間。先が長いな。
 夏休みの子供キャンプは何時からと、問い合わせがある。未だ夏休みのことなど決める気にはならない。自分がその気になったらするし、その気になら無ければしない。あんまり先のことなど決めて縛られたくない。勝手に期待をされても応えられない。自分の一存で決めるのもプラスもマイナスはある。組織だってやっても同じこと。結果が同じなら自分の気持ちを最優先させたほうが、自分が納得がいく。自分の気持ちを曲げてまで何かをしたいとは思わない。我がままでいいと思っている。


5.29 自然破壊
 久しぶりに郷里の静岡に帰ってきた。母はいないが、父が95歳で元気に過ごしている。後何回会えるかは解らないので会えるときには顔を見せに行きたいと思っている。実家の周りの風景には昔の面影は無い。昭和30年代から開発が進み、水田や畑、里山は見事に人工物で埋め尽くされている。当時人口100人足らずの集落に、今は何千人と住んでいる。振り返って現在住んでいる地域をみれば、昭和30年代には生徒が400人ほどいた小学校も廃校になっている。都市近郊は人口が増えたため、田舎は人口が減ったため農地や山林が減ったり荒れていく。市場原理の元で生命の源である自然環境が破壊されていく。教育と言う名の元で欲望を刺激し、理性を破壊している結果でもある。現代社会は理性が破壊され、欲望と感情だけが暴走している様に思えてならない。と思いながら自分も高速道路を走り、パソコンに向かったりしている。草を刈るためには草刈り機を使い、耕すためには耕運機も使っている。理屈をつけて自分を正当化しているが、何とも始末が悪いことである。北極では氷が融けて地下資源の開発競争が勃発しているという。つける薬は無い様である。こんなご時世だからこそ自分の足もとをしっかり見つめないと、全てがどうでも良いような気持ちに流されてしまう。時代の流れは流れとして受け止めながら、自分は自分らしく生きていく。結果はともかくとして。


5.24 若者との共同企画
  若者との共同企画で「熊野暮らし方デザインスクール」がスタートした。以前から若者の手足になって働けたらと思っていたが、現実に一歩が動き始めた。自分の強みは現場を持っていることだけ。別の若者との共同企画ももう直ぐスタート出来るように準備をしている。若者が都会に住みながら、田舎と直接関わりを持てるシステムつくりの第一歩でもある。形はともかく田舎や農業に関心のある若者の受け皿が大事だと考えている。今都会には若者が溢れているが最初から溢れていたわけではない。田舎に若者が定住できるような世の中になれば、もう少し落ち着いた世の中になるだろう。もう少し安心して生きていける人が増えるだろう。果てしなく遠い道のりではあるが、今自分に出来ることをする。


5.19 冷たい雨
 今日も昼過ぎから冷たい雨。夜には台風の影響か激しい雨が時折降っている。雨が降る前の午前中に菜の花を刈り始める。今年は冬に新芽を鹿に食べられたために例年よりも収量が少ない。それでも自給+営業用は収穫できるだろう。これで充分である。菜の花油を自給しようと思えば、それほど難しく無いのに自給しようとする人は少ない。経済的な効率を考えたら買ったほうが安いことは確かなことでもある。中味まで吟味し心と体の事まで考えたら自給した方が健康的だし経済的だとも思う。その辺のことは各自の考え方の問題である。自分は出来る限り自給した方がいいと考えている。ただ自分がそうしたいと思うからしているだけのことである。今午後10時過ぎ。かえるの鳴き声と雨音だけが聞こえてくる。かえるの鳴き声も一時に比べれば静かになった。鹿や猪も餌を求めて雨の中を畑の近くに出没しているのだろうか。人間は夜になれば疲れて眠くもなる。余計なことも考えては心を悩ます。近所の人が昨日大きな猪を獲ったと言う。今夜は横になることにしよう。


5.18 浅知恵
五月中旬なのに朝晩は肌寒い。今日も昼過ぎから冷たい雨が降ってきた。稲や畑の作物のこと思えばもう少し日照時間が欲しいところでもある。人間は常に自分勝手なことを思う。どうにもならないことでも思ってしまう。自然環境のことでも人間関係のことでも。自分で自分の首を絞めることも多い。時には他人の首さえ絞めることもある。
 地方紙の取材を受けた。どんな記事になるのかは知らないが、自分の本当に言いたいことは中々記事にならない。取材側に主導権があるのだから仕方が無い。来週も1件取材の申込みがきているが、どんな風に料理されることやら。
 今週のパン屋の営業もリピーターと初めてのお客さんといい感じで来てくれた。毎週リピーターがあるということは、少しは受け入れられてきたのかなと思う。素人が焼くパンだから、技術的なことは職人さんの焼くパンには足元にも及ばない。ただ材料に関して言えば、自分が栽培しているものがほとんどだから「良かったらどうぞ」と言える。山間地で農業をしている自分に出来る事はこの程度のことである。こんな程度のことしか出来ない自分が無性に哀しくなることがある。申し訳ないと思うことがある。もう少し何とかできないかと思うことがある。思いは無限に広がるが出来ることは限られている。人間は有限の中でしか生きることは出来ない。思いも有限の中に留めておくことが大事になる。常に体の中に思いを留めておかないと空中分解してしまう。心地よく生きるには思いと体を自由自在に使う智恵を身につけることが必要になる。まだまだ浅智恵の中でいきているなぁ、、、、。


5.15 若者
 現役の学生時代から共育学舎に出入りしている若者が、今は大学の教員という肩書きになっている。ある人を紹介した時に同席した。当然のことながら紹介先の人は、彼を「先生」と呼んでいた。一寸嬉しいような誇らしいような不思議な感じがした。もう自分は後ろに回ろうと思った。 学校の先生になった若者も「先生」と呼ばれているだろう。肩書きで生きるのではなく、中味をしっかり身につけて欲しいものである。
今春東京に就職した若者に電話をしてみた。「厳しいです。やめようと思いましたが乗り越えました」との返事。今頃多くの若者が壁に突き当たっているだろう。跳ね返されたもの、乗り越えたもの色々だろう。「働くのは死ぬ苦しみ」とはよく言ったものだ。田植えにきた若者の中に来春から大きな商社に就職の内定をしている者もいた。発展途上国の為に尽くしたいので商社を選んだと言っていた。若者がどんな選択をしようと各自の問題である。自分の思う世界に挑戦してみたらいい。「泣かされて 笑われて 叱られて」成長したらいい。自分も田んぼで汗を流す。


5.14 人心の乱れ
 一昨日には今年初めてカヌーで熊野川を下った。釣り人もいなく本当に静かな、いい環境のなかで楽しむことが出来た。昨日から田んぼの草取りを始めた。今年は気温が低いし日照時間が少ない。山には椎の花が多い。地元の古老に聞いてもこんなに多いのは記憶に無いと言っていた。椎の花が多い年は台風が多いと地元の言い伝えがある。昔二宮尊徳翁がなすびの花の咲き具合で冷害を予測し農民を飢饉から救ったという話しを思い出した。今年は米は不作になるかもと、思ったりしている。玄米の販売は控え備蓄しておこうかとも思ったりもしている。自然界の変化は確実にスピードアップしている。原因は何か解るわけもないが、「人心乱れるが故に天又乱れる」そんな言葉を思い出す。人心の乱れは何処まですすむのだろか?
人心の乱れといえば、身近でも金銭トラブルの話しを聞いた。よくある詐欺まがいのトラブルである。お互いが知り合いどうして家族付き合いをしている間柄で起きたトラブルである。話しを聞けば騙す方が一枚上手である。仲間が何人かいて逃げ道はちゃんと用意してある。騙されたお金は返ってこないだろう。騙す方は用意周到に計画をたて、同じ手口で何人も騙しているようだ。こんな田舎で騙すとは余程お金に困っているのか、良心が麻痺しているかだろう。想像するにグループ内で「理論武装」され良心は既に「死人」となっているのだろう。人間の心は弱いものでもある。人を殺すことも正当化してしまうことがある。騙した人には良心の呵責は無いだろう。また次のカモを物色していることだろう。自分も人を騙すこともある。嘘をつくこともある。非難されることもある。余り考えすぎると人の前には出れなくなる。程度問題だと自分を正当化しなければ生きてはいけない。程度は自分の良心に照らし合わせ判断するしかない。自分の中に仏と鬼が同居いている。仏を出すのも鬼を出すのも自分次第である。心が心を迷わすことになる。危うい自分の存在を自覚して生きていこう。


5.09 何をしても同じ
 
田植えに参加した中で最後の一人が帰って行った。午前中に生姜を30kg植える。今年の種生姜はあまり良いものではない。ここ一週間は人の出入りが多かったので、久しぶりの静かな夕食だった。明日はパン屋の営業。一週間が早い。草取り草刈りと菜の花の収穫が始まる。今年は小麦の収穫が無いが、忙しさは変わらない。結局何をどうしても同じことのようだ。自分の気持ちを大事に生きたらそれで良い。だだそれだけの事のようだ。

5.07 田植え
 昨日田植えも無事に終わった。イギリス人3人、アメリカ人2人を含め総勢18名で植えた。殆どが初心者だったが上手に植えてくれた。人海戦術とは恐ろしいもので午前中で終了した。午後からは温泉に行き皆で一杯飲んだ。
 今年はどんな作柄になるだろうか。結果は誰にも解らない。願わくば無事に収穫したいものである。

4.30 愚かな証拠
 巷ではGWだが、静かなものである。近くの温泉場に行って来たが灯りのついている部屋は少ない。景気のせいか、海外に行く人が多いせいなのだろうか。
 田植えが近づいて来た。昨年は経験者4人で植えたが、今年は素人ばかりで植えることになりそうである。都会育ちの若者が一本の苗でも良いから植えた体験は、何時か何かの役に立つこともあるだろう。毎日食べるお米は、水田で誰かが栽培しているからという現実を認識できたら何かが変わるだろう。共育学舎に滞在する人たちとは一緒に食事をするが、年齢性別に関係なく姿勢と食べ方が悪いのが目に付く。自分はあえて注意をしたりはしない。3年経って食べ方を覚えたらいいと思っている。外から教えられなくても自分で気が付けば自ずから姿勢も食べ方も変わってくる。外から教えられたものは役には立たない。気が付くまでは黙って見ている。
 獣害対策はあれこれ考えた結果、電気柵とネットの併用で行くことにした。猪には電気柵。鹿にはネット。猿が来たらお手上げ。結果は願っても考えても解らない。その時に出来ることをするだけのことである。
 山間地という農村は数年後には無くなっている可能性が高い。日本という国に農業が無くなる可能性すらある。国民に危機感が無いのが一番の危機的問題である。延々と時間をかけて築き上げてきたものが、一瞬で崩れ去ろうとしている。人間の浅はかな欲望が国を滅ぼす。人類の歴史でもある。日本は中から、チベットやイラクは外圧で。どちらにせよ哀しいことである。理性と感情をコントロールする能力を育てることを無視し、その結果欲望に振り回されているだけのことである。滅びるものは潔く滅びた方が良いのかもしれない。そんなことを思うのも滅びることは無いだろうという盲信と、現実から目をそらす愚かな証拠だろう。
4.29 各々人生
 今日は何の祝日だったか、カレンダーで確かめたら「昭和の日」と書いてあった。何時から知らないが、何とも味気ない名前にしたもんだと、役人と政治家の頭の中を見たような気がした。知らない自分はそれ以下のレベルだから始末が悪い。今の日本社会では何が起きても不思議ではない。そんなレベルは何時の間にか乗り越え、何でも有りの様相を呈している。
 出先でテレビのニュースを見ていたら、給食費の未払いの問題を取り上げていた。正確な金額は忘れたが全国で10億円は超えていなかったように思う。テレビの画面では困った問題ですねと、キャスターと言われる人がコメントをしていた。確かに決して褒められた行為ではない。では何故そんな問題が起きるのか、その根本原因を考え追求しようというキャスターの人間としての問題意識は全く感じられなかった。見ている側も、追求すれば自分の問題として帰ってくるから、他人事として片付けていく。お互いに肝心なことには蓋をし続けていく。腐りはどんどん蔓延していく。「腐肉は喰らわず」という意識はなく、手段を選ぶ理性も一緒に腐っていく。
 どんな時代になろうが、命ある限りは生きていく。一人の人間として出来る範囲の中で生きていく。今年も田植えが近づいた。日本全国でどれ位、高齢化のために田植えのされない田んぼが増えただろうか。給食費を払わない人、田植えをしたくても出来ない人。生命の源の農地が荒れても知らん顔をする人。人には各々の人生がある。

4.20  応不動
  稲の苗も順調に成育している。近所では田植えが始まった。大勢の人が田んぼに入っての田植えの風景は見られない。それぞれが機械でスイスイ植えいく。その後で一人か二人で何日も植え直しをしている姿は淋しさを感じる。自分は手で植える。今年は何人で植えることになるだろうか。機械の方が早いのに決まっているが、体の続く限りは手植えで米を作りたいと思っている。
  先日某テレビ局からの取材の問い合わせがあった。パンの取材だったが、取材用に焼くパンは無いと答えた。レポーターを相手に話す気にはなれない。雑誌の取材もあったが記者には誠意を持って話しをした。旅行会社から小麦の収穫とパン焼き体験が出来ないかと問い合わせがあった。条件が合えば出来るとは答えた。こちらの思いなど関係無く色々な話が舞い込んでくる。来客も相変わらず多い。人にはそれぞれの思いがある。来る者は拒まず。「応不動」を心がけている。


4.16 アメリカから来客
  先日播いた籾もきれいに芽が出てきた。苗作り半作とも言うとおり、苗作りは大事な作業でもある。箱苗は水苗代と違って手元で管理できるので、ある面では気が楽でもある。これから2週間が勝負である。
 数日前からアメリカの28歳の青年が2ヶ月の予定で滞在している。彼は日本で3年間。その後モザンビークで2年間英語教師をしてきた。大学院に進学するまでの休暇で来た。大学院では国際紛争を解決するための勉強をするという。日本語も話せるので色々な話が出来るのは楽しみである。


4.13  誕生日
 今年も誕生日を日常的な生活の中で迎えることが出来た。無事是凡人という程度か。還暦を過ぎ最初の誕生日と言うことは、新しいスタートでもある。60代はどんな生き方になるだろうか。願わくば自分の思いを大事にしたいものである。例えその思いが天使のささやきでも、悪魔のささやきでも自分の中から出た思いならば、素直に従いたいものである。自分が今まで生きてきた結果だから、自らの責任で従いたいものである。今更世間の常識とか他人の思惑などは、どうでもいい。60年間生きてきた自分の知識と経験を信じる。まだ気力も体力も余力はあるような気持ちでいるが、無理はしないようにしよう。風の流れに身を任せる。風の吹くままに。
 籾播きをした。初めての箱苗作り挑戦。出来ることならば水苗代で苗つくりをしたいところだが、周りとの兼ね合いで仕方が無い。出来る状況になったら元に戻せばいい。


4.10 百姓の意地と醍醐味
  電話で2件玄米の注文が入った。今年に入ってからパン屋に試験的に玄米を置いている。勿論無農薬有機栽培の自家産である。籾をつけて保存してあるので、その時に販売する分だけを籾摺りする。同じ人が何回も買い求めてくれる。自分では美味しい玄米だと思っている。注文があるということは、安全で美味しいと評価してのことだと自分勝手に解釈している。解る人が解ってくれたら嬉しい。先日もある人から毎月20k欲しいと頼まれた。一瞬考えてお断りした。在庫はあるが自分が売りたいと思う分だけ売ることにしないと主客転倒してしまう。売るために栽培をしているのではない。自分が食べるために栽培している。余剰生産があれば販売するだけのことである。自分が食べるものだからこそ安全にも味にもこだわる。自分が食べて安全で美味しいと思えるものだけを栽培する。換金はあくまでもその結果の副産物である。最初の一歩を踏み間違えないように細心の注意が必要である。優先順位は大事にしている。百姓の意地でもある。
 畑の菜の花が満開である。春先の鮮やかな黄色は心を明るくし希望が湧いてくる。思えば小麦と菜の花は今年は鹿や猪にプレゼントをしたもである。小麦は全て食べつくしたが菜の花は食べ残してくれた。後は実がなれば小鳥達の格好の餌場になる。小鳥が食べ残した分が自分達の食用油になる。道のりはまだまだ遠い。自然の中では人間だけが生きているのではない。人間だけでは生きることは出来ない。命あるもの全てが生きることにより自分も生きることが出来る。自分で決めることが出来ることと、自分の力が及ばないことがある。そのことの自覚と見極める冷静な理性を、何時も鮮明にしておかないと混乱する。不安になったり腹を立てたり余計な感情に支配されてしまう。何時も自然を意識し、自分を意識しながら生活が出来るのも、百姓の醍醐味である。


4.09 自分で答えを出す
 世界中で聖火の妨害事件がおきている。世界中の多くの人たちは心情的にはチベットを支持し、中国に反感を持っているだろう。もっと早い時期に国際世論としてチベット問題がクローズアップされてもいいと思っていた。国が国を支配する。民族が他民族を力で制圧する。人類の歴史でもあるが、当事者にとってはこんな悲惨な現実は無い。誰もが平和を願いながら世界中で悲惨な現実が繰り返されている。何故か?どうすればいいのか。ダライラマに質問したら「I don’t know」と答えるだろう。他人に質問して解決する問題ではなく、自分の中で答を探し、実践するしかない。自分の問題として真剣に受け止めなければ意味が無い。感情的に反対しても、抗議活動をしても問題の解決はされない。
 自分が存在することで、他を苦しめていることがある。自分で自分を傷つけていることもある。自分が存在すること、自分が生きていることに謙虚にならなければ問題解決のスタートラインにつけない。チベットの人たちにとって「ダライラマ」の存在がせめてもの救いであり、心の支えであると思う。よき指導者がいるところにまだ希望がある。「非暴力」を実践する指導者と、国民に平和が来て安心して生活が出来る日が来ることを願いながら、日々の務めをすることしか出来ない。「日々その本(もと)を務めよ」そんな言葉が胸に沁みる。


4.07 情けない現実
  ガソリンが値下げされた。といっても数年前に比べれば倍近い値段である。道路特定財源の問題も利権争いで終始している。地域住民の多くは道路はもう充分だと思っている。どんな立派な道路が整備されても、少しは便利にはなるが地域は疲弊していくばかりである。その現実を認識している。しかし地域住民が声を大にして道路建設に反対することは無い。出来ない現実がある。長い時間をかけ築き上げてきたものがある。長いものには巻かれるしか出来ない現実がある。どんなに税金が投入されても住民の生活には反映されない仕組みが出来上がっている。その証拠に道路建設は進んでいるが、地域社会は崩壊に向かって進んでいる。過疎化高齢化が叫ばれて久しいが問題は解決の方向に向かってはいない。
 今年も近所で体の調子が悪いから田植えをしないという人がいる。毎年一人二人と農業を離れていく。何となく気ぜわしくなる時期でもあるが、なんとなく淋しくなる時期でもある。一昔前ならば一番活気のあった時期なのに。政治屋が利権争いをしている間に、国民の食糧生産の基盤が失われていく。道路財源を食糧生産の為に使うという発想は無いのか。都会に住み利権顔と批判される人たちには無理な発想だろう。新年度でどんな事業が組まれているのか住民が知ることは出来ない。哀しくもあり情けなくもある現実である。


4.05 確かのもの
 新しく高校に入学する若者が1週間滞在し帰っていった。ここでの1週間で何を思い何を感じたのだろうか。夏休みにも来いよと送り出した。神奈川から来た21歳の青年も半月が過ぎた。今までとは全く違う環境の中で何を思い生活をしているだろうか。一緒に生活をしているが余計な干渉はしない。寝食を共にするだけである。
 人間には持って生まれた才能がある。個人差がある。個性がある。育つ環境の中で自分なりに外からの刺激を受け、個性が育っていく。受け止める量とスピードは個人差がある。他人と比較することには何の意味も価値も無い。一人ひとり個体が違う。持ち味が違う。かけがいの無い存在である。命あるものは生きていればいい。ただそれだけで充分である。余計なことを考え行動しなくてもいい。考え違いをして世の中を荒らしまわり富を蓄えるより、人間らしい生活が出来る。貧しさの中で観える確かのものがある。確かなものを支えに生きていけば、心が落ち着く。迷っても帰ってくる原点がある。自分の心に従う安心がある。お金では買えないもの。お金よりも大事なもの。こんな生き方も一つの選択肢であり、人生である。


4.02 戯言 2
 先日1泊2日で大阪に行ってきた。東京も大阪も名古屋も人工物の中で人間が蠢いている姿は一緒である。人間は環境に慣れ順応する能力は備わっている。見事に多くの日本人が人工物の中での生活に順応している。それぞれの思惑は違うだろうが見事に同じ土俵に上っている。老いも若きも。そしてその環境に馴染めないものが、土俵外に弾き飛ばされていく。傷ついていく。傷ついたものを敗者と蔑んでいく。勝者の驕りは有っても、負けたものを労わる情けはない。自分も勝ちたいという妄想と、勝ったという錯覚が社会を支配していく。負けたという敗北感が自暴自棄に駆り立てていく。勝っても負けても心の安らぎは無い。元々は勝ちも負けも無い。優劣を同じ基準で計ることがおかしなことである。誰が基準を作り、優劣を判定するのか。実体の無い幽霊に怯え恐怖と不安に支配されているようなものである。恐怖と不安の中では人間らしい理性も感情も育たない。
「誰でもいいから殺してみたかった」この言葉を真摯に受け止める必要がある。現代日本人の中に「何で?」という疑問を持つことがなくなってしまったように感じる。「何で生きるのか」「何で勉強するのか」「何で働くのか」何で、、、、」 疑問を持ち、思考を重ね、答を確認することの大事さを失ってしまった。その結果、例えば欲にとり付かれた様に車を作り続ける。未だ使える車を廃車にする。この繰り返しの中で世界一の企業が出来上がった。車を作り続けることがどんな影響があるのかは考えさせない。働くものには車を作ることだけを求め、消費者には車を買わせる為にだけ欲望を刺激し続ける。労働者も消費者も訳も解らず車を作り、車を買い続ける。何も車だけではない。全てに通じることである。車も修理して使えば今後30年間ぐらいは新車は無くても大丈夫だろう。ものを作り続けることがそんなに大事なことなのか。尊いことなのか。経済的な利益を追求することで、何を得て何を失っているのか。「何で」ともう一度考えてみることだ。
 日本は経済戦争では既に負けている。先の大戦からもう一度学んでみれば解ること。戦争では若い尊い命が「特攻隊」という名の元で散っていった。今若者は企業に「使い捨て」されている。、生きてはいるが心身ともに病んでいるものが増え続けている。
 多くの若者達が新しい環境に飛び込む時期でもある。世の中の幽霊に惑わされることなく、自分を大事にして欲しいと願っている。立ち止まって考える勇気を持てと、百姓のオッサンは思っている。バランスと優先順位の問題である。疲れたら何時でも遊びに来いよ。食べ物と布団は用意してある。


 NPO共育学舎   NPO共育学舎   代表 三枝 孝之
   〒647-1221  和歌山県新宮市熊野川町西敷屋450
   TEL/FAX 050−7000−8831(IPフォン)または 0735−47−2160

 E-mail:saigusa@@zb.ztv.ne.jp
(メール送信時に@を1つ取ってください。)